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    「青燕―あおつばめ―」@韓国映画

    反・韓流のブームが巻き起こっていますが、そのことには触れません。
    1905年の日露戦争後、日本が植民地とした朝鮮半島。歴史の教科書から満州国の軍需産業、富国強兵の発令で朝鮮人を奴隷化したと学んでいます。
    しかし、朝鮮人の大人たちの捉え方とは別に、子供たちは日本に夢も描いたことも事実です。

    「青燕―あおつばめ―」という韓国映画はYahoo!JapanのGyaO!で2011年8月26日まで、無料動画として観ることができます。

    「青燕―あおつばめ―」


    配信停止ギリギリの記事なので観れなかった人もいると思います。レンタル等で観てください。
    観れなかった人、内容をより詳しく知りたい人のために、とても参考になるサイト記事を紹介します。



    ////////////////////////////////////////////////////////

    2005年に公開された作品で、朝鮮人初の民間人女性パイロットである朴敬元(パク・キョンウォン)(Pak,Kyongwon)さんの生涯を描いた作品です。

    <映画のあらすじ>
    幼い頃から空を飛ぶのが夢だった朴敬元(パク・キョンウォン=チャン・ジニョン)は、丘の上から、大きな鳥のような飛行機を初めて見た日に、飛行士になる事を決心する。彼女は飛行士になるために日本に渡航し、飛行学校に通うようになるが、学費を捻出するためにタクシーの運転手になる。そんなある日、キョンウォンのタクシーに、韓国人留学生ハン・ジヒョク(キム・ジュヒョク)が乗車する。ジヒョクは、堂々としていて、自分の夢のために努力するキョンウォンに惹かれるが、父に叱責され、やむを得ず軍に入隊する。

    数年後、キョンウォンは初飛行を無事に終え、有名な2等飛行士になる。故国の朝鮮にまで広く名前が知られたキョンウォンは、彼女に憧れて日本へやってきたジョンヒ(ハン・ジミン)と、実の姉妹のように暮らす。ジヒョクは、キョンウォンがいる飛行学校の将校に志願し、キョンウォンと再会し、互いの愛を確認する。

    飛行大会への出場を目指していたキョンウォンは、日本最高のモデルで、外務大臣という強固な後ろ楯を持つ木部雅子(※)(ユミン=笛木優子)のために飛行大会に出場できなくなる。キョンウォンは、実力を競う練習試合の途中で事故に遭った木部を助け、それ以後木部は、キョンウォンの友人であると同時に強固な後援者となる。

    キョンウォンは木部に出場権を譲ったが、同僚操縦士セギ(キム・テヒョンさん)の不慮の事故により、高度上昇競技に代わりに出場し、危険な飛行で難関を潜り抜け、大会で優勝する。

    キョンウォンは、故国訪問飛行の基金を準備するために募金運動を始め、木部は、そんなキョンウォンを支援する。1人の男の為に、女として生きるには、夢への希望が大きかったキョンウォンは、ジヒョクの求婚を断る。ジヒョクは、愛よりも、恋人よりも、空に向けた夢をより大切にするキョンウォンを理解しながらも、辛い想いをする。

    いよいよ一生の夢だった故国訪問飛行を目前にしたキョンウォン。だが、彼女にはどうする事もできない問題がたくさん起きていた。愛、友人、同僚、全てのものを失ったキョンウォンに残されたのは飛行だけ。全ての事を忘れるために、夢を叶えるために、キョンウォンは悲しみを打ち破り、彼女の飛行機「青燕(あおつばめ)」に乗り、青い空へ力強く翼を向ける―


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    朴敬元(パク・キョンウォン)さんは、光武5年(1901、明治34)6月、慶尚キョンサン北道ブット大邱テグ府徳山町(現、大邱広域市に生まれ、大正2年(1913)に信明シンミョン女学校に入学。同4年(1916)同校高等科に入学しますが、同5年(1917)には中退。横浜技芸学校に入学して自動車の運転をマスターするなどして、同9年(1920)に同校を卒業する。同年、大邱の慈恵医院助産婦看護婦学校に入学。同11年(1922)同看護婦学校を卒業の後、インターンとして2年間務める。

    大正13年(1924)日本飛行機学校自動車部に入学。更に、同15年(1926)に日本飛行機学校立川分校操縦科に入学。

    昭和2年(1927)1月に3等操縦士免許資格を取得し、 朝鮮の民間人女性としては初めての女性パイロットとなる。

    更に翌3年(1928)には日本で3番目の2等操縦士免許(女性には1等操縦士免許が認められていなかった)を取得する。

    彼女は数々の競技大会にも参加して入賞するなど、その優れた技量を示した。なかでも、昭和3年(1928)5月に代々木練兵場で開かれた競技大会では3位入賞を果たした。

    折しも、時代は世界各地で女性が飛行機で空を開拓する事が話題になっていた頃であり、昭和5年(1930)11月、イギリスの女性パイロット・ヴィクター・ブルース(Victor,Bruce)さんが単独操縦での世界一周を計画・実行された折に来日された時、日本を代表してブルースさんを出迎えるウエルカム・フライトを担当したのも彼女で、歓迎式典ではブルースさんと並んで記念撮影をされている。

    ここまで見ると、彼女は当時を代表していたモガ(モダンガール)の1人で裕福な家庭に育った女性の様に感じますが、実のところは苦学生だったらしく、看護婦時代に働いて貯めた僅かな資金だけでは、やっていけず、親類・縁者に援助を求めてもソッポ向かれる有り様でした。

    そうした彼女の苦境を見かねた朝鮮の新聞社(東亜日報や京城日報)が3回にわたって「朝鮮初の女性飛行士をめざす朴嬢を助けよう!」という記事を書きました。すると…

    僅かながらも寄付金が集まったり、中には内密に支援してくれる人が現れたのです。

    その人は旧李王朝の皇太子の李垠殿下でした。しかも、殿下に彼女への援助を懇願されたのは、方子まさこ妃殿下だったと云います。

    そして、前述の3位に入賞した競技大会での賞金を元手にして、昭和6年(1931)9月、陸軍払い下げの中古だが、フランスで設計されたという、当時最新鋭の機体を購入します。この機体の名前は朝鮮の伝説で“幸せを運ぶ”と云われている青い燕に因んで「青燕号」と名付けられました。

    彼女は常々パイロットの免許を取ったら、海峡を越えて祖国の空を飛びたいという夢がありました。

    その想いは日満親善・皇軍慰問飛行という形で実現し、昭和8年(1933)8月7日、東京から満州の新京(現・長春)まで約2500kmの距離を操縦する、女性としては初の横断飛行に挑みました。

    ところが、午前10時35分に離陸してから50分位経った頃、彼女が搭乗した「青燕号」は静岡県田方郡多賀村(現熱海市)の玄ヶ獄山辺りでそのまま墜落死したのです。

    その日、8月7日の羽田の東京飛行場近辺は、雨が降ったり止んだり、とかなり気象条件が悪かったようです。ましてや、当時はレーダーなどなく、目視だけが頼りの飛行技術であったので、相当な困難が予想されました。
    しかも、夏場の伊豆半島付近の山脈帯は強い下降気流が発生するらしく、視界を覆う様な気象条件に強い下降気流の中で、「青燕号」は方向を見失い、山に近づき過ぎたため、無残にも斜面に叩き付けられてしまった様です。

    午前11時17分、箱根測候所で機体の爆音が確認されています。
    翌8日午前8時10分、静岡県田方郡多賀村玄ヶ獄山中で大破した機体が発見されました。
    当時の状況を熱海市が市制施行60周年記念で製作した『熱海歴史年表』の記述を参考にすると、


    昭和8年8月8日の朝、多賀村の人々は快晴の玄岳山頂付近に光るものを見つけた。すぐ、前日東京飛行場を発った飛行機ではないか、ということになり警鐘が鳴らされた。小松勇次村長の指揮の下、消防団、青年団に網代からの応援も加わり現場にたどり着くと、操縦席でハンドルを握ったまま、朴パク敬元キョンウォンは息絶えていた。腕時計は11時25分30秒を指し、愛用のハンドバックには拓務大臣(=永井柳太郎)などから「満州国」へ託された3通のメッセージが入っていた。…(中略)…敬元の遺体は村の火葬場で荼毘だびに付され、機体は多賀小学校に寄付されました。
    とあります。

    朴敬元(パク・キョンウォン)さんの一周忌の際、当時の多賀村長・西島弘さんが「鳥人霊誌」という題字の慰霊碑を建て、また日本飛行機学校の彼女の後輩たちによる追善飛行が行われ、墜落地点辺りに花束がまかれました。更に、7回忌には慰霊祭が行われています。


    神奈川県熱海市梅園町にある熱海梅園の中に平成14年(2002)に造られた韓国庭園の一隅に朴敬元(パク・キョンウォン)さんの記念碑「朴飛行士記念碑」があります。


    記念碑には、
    朴敬元女史 1901年 慶尚北道大邱府に生まれました。1925年に日本飛行学校へ入学して飛行機の操縦を学び大韓民国初の女性飛行士として二等操縦士免許を取ると、かねてからの希望であった故郷への訪問飛行を計画し、1933年8月7日その日を迎えることになりました。飛行機は単発小型機で、「青燕号」と命名されました。女性としては初めての長距離飛行となり、羽田空港では官民多数の盛大な見送りを受け、午前10時35分離陸しましたが、気象変化の激しい箱根上空で密雲に阻まれ方向を失い、熱海市側の玄岳頂上よりわずか50メートル下の山腹に激突し、不幸にも33歳の若さで墜落死してしまいました。
    翌8日、女史の遺体は地元の多賀村の人々の手によって荼毘にふされ、翌年8月7日には、元多賀村長西島弘氏が私費で墜落現場に鳥人霊誌碑を建立し、そして1961年春には地元町内会の手で朴敬元嬢遭難慰霊碑が建立されました。地元の人々は、夢半ばにして破れた朴敬元女史の心安らかなる事を願い、毎年定期的に墜落現場までの草刈や慰霊碑の保全を行う等、大切に護持しています。…(後略)…
    と刻まれています。

    因みに、日本人初の民間人女性パイロットはというと、兵頭精(ひょうどうただし)さんです。明治33年(1900)愛媛県北宇和郡東仲村(現、鬼北町東仲)の農家の四女として生まれた彼女は、お父さんの影響で飛行機に憧れ、済美高等女学校(現済美高等学校)を卒業後、上京し飛行家を目指します。

    大正8年(1919)から11年(1922)7月まで、4年間津田沼海岸の伊藤飛行機研究所で、慣れない飛行機に取り組み、滑走練習、次いで滑走機練習を積み重ね、途中墜落事故(高度300mからエンジンを止めて滑空降下する飛行練習中、ミスを犯して墜落)を経験しながらも、翌10年(1921)4月、日本で航空取締規則が公布されて操縦免許制になった後の同11年(1922年)3月、3等飛行機操縦士免状を取得し、免許取得直後の同年6月、帝国飛行協会主催の飛行競技に出場しました。

    そう言えば、昭和51年(1976)に放送されたNHK朝の連続ドラマテレビ小説「雲のじゅうたん」で主役だった小野間真琴(演じたのは、浅茅陽子さん)は、兵頭さんをはじめとして、当時数十人程おられた女性パイロットたちのエピソードを拾い集めたドラマでしたね。


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    彼女の想いは中途で潰えましたが、その志は後輩たちによって受け継がれていきました。でも、天国で彼女はこう言っているのではないでしょうか…

    私の方がまだまだ飛べるわよ!って―


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※ ユミン=笛木優子さんが演じた木部雅子という女性のモデルは木部シゲノという女性で、明治36年(1903)11月、福岡町築上郡八屋町に生まれ、3歳の時に両親と共に朝鮮平安道の鎮南浦に移住されたそうです。昭和55年(1980)他界されました。奇しくも、兵頭精さんと同じ年に亡くなられておられますね。(御二方ともご自身がモデルとなられたNHK朝の連続ドラマテレビ小説「雲のじゅうたん」を観てらっしゃって、どうお感じになった事でしょうね?)


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    この「青燕―あおつばめ―」で朴敬元(パク・キョンウォン)さんを演じられたチャン・ジニョンさんが9月1日に胃癌のためお亡くなりになってらっしゃいました。享年34歳という短い生涯でした。

    チャン・ジニョンさんに哀悼の意を表します―


    あなたが「青燕―あおつばめ―」で演じられた朴敬元(パク・キョンウォン)さんの業績をここにしっかりと刻み込み、それを知る事ができたあなたの演技に感謝します。

    歴史~とはずがたり~

    引用ここまで

    ///////////////////////////////////////////////////////////////////



    上記のあらすじは後半の激変する前までの内容です。ネタばらしになりますが、
    その後、クーデターが起き、恋人のハン・ジヒョクが拷問の上、処刑されてしまいます。また、パク・キョンウォンも拷問を受けますが疑いが晴れ、解放されます。
    日本から満州にいる日本人への表敬訪問飛行が予定され、ユミンが志願します。しかし、朝鮮人からは売国者と言われることを覚悟していながら、日本人でも朝鮮人でもなく、飛行者だという信念を貫いて、パク・キョンウォンが2500kmの長距離飛行に志願し、ハン・ジヒョクの遺骨とともに飛び立ちます。
    その後、天候が悪化し、熱海で墜落し、悲運の死を遂げます。


    ----------------------------------

    「青燕(あおつばめ)」という名前は、ラストフライトの長距離飛行の時に乗っていた飛行機の名前で、劇中には出てこないが、当時、彼女を支援していた逓信大臣・小泉又次郎(小泉純一郎の爺さん)が名付けたという逸話もあります。
    この映画は半分はフィクションだと言われますが、それは劇的にするための脚色で、骨子は事実のようです。
    恋人や後輩の存在がフィクションの可能性が高いです。



    この映画は韓国映画の中でも特殊かもしれません。
    韓国内ではボイコット運動が起きて不評に終わっています。朴敬元は売国者として扱われ、韓国での記録も抹消されています。
    たぶん、日本を称賛する気配が感じられるからでしょう。
    映画の中での韓国人(朝鮮人)の扱いは、日本人と同様であったと感じられる描かれ方になっていて、植民地と言えど、決して奴隷扱いしていない表現をしている点が、韓国での教育内容と違うからでしょう。
    でも、韓国人女性が飛行士の夢を描いて実現したのは日本です。
    そして、人生を謳歌するように描かれています。
    決して、植民地化した日本を肯定しているわけではありませんが、韓国人女性が、日本に来て飛行士になるという夢をかなえるということが当時できたという事実は、少なくとも奴隷扱いではなく敵視していなかったのではないかと思われます。
    日本人でも、今で言う「アメリカで夢をかなえる」という響きは、単純に「いいな」と思える部分があるのと同じ感覚の描き方になっています。
    当時の日本人が韓国人(南北に分かれる前の朝鮮人)に対して、どのように思っていたのか、戦後の人間としては断片でしか分からないというのが事実で、日本が作った映画・韓国が作った映画のどれを観ても、一方的な描き方になっている気がします。
    その中で、このような映画は逆に生々しく感じられ、当時はこんな感じだったのかな?とも思えます。
    日本人が満州国(朝鮮半島)に渡って産業を立ち上げていたのですから、同じ労働力(者)として、日本人としては日本人も朝鮮人も同等の感覚であったのかもしれません。
    しかし、奴隷扱いだと捉えた朝鮮人の感覚は、韓国・北朝鮮の歴史として刻まれてしまっています。

    だからこそ、日本人も韓国人も同様に観てもらえたらいいと思う映画です。


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    テーマ : 韓国映画
    ジャンル : 映画

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