東日本大震災で中央官庁は何ができ、またできなかったのか。道路、救援物資、燃料、仮設住宅、がれき処理。震災直後から被災者の生活に深くかかわる五つの課題を検証する。(肩書はすべて当時)
◆道路
◇考えられることをすべてやってくれ 初動迅速「くしの歯作戦」
3月11日午後3時20分過ぎ、岩手県宮古市にある国土交通省の宮古維持出張所。市役所前のカメラがとらえた巨大津波がモニター画面に映し出された。防潮堤を越えて車や船を押し流していく。鈴木之(いたる)所長は現実かどうかも分からぬまま、上部組織の三陸国道事務所に連絡を入れようとした。だが光ケーブルの専用線まで断たれ、孤立状態に陥っていた。
危険な道を通行止めにしたが、津波が来たことを知らない住民が「なんで止めるんだ」と不審がる。モニターの画像をデジタルカメラで撮影してプリントし、ドライバーに1人ずつ配って知らせた。
午後10時、パトロールに出たまま連絡が取れなくなっていた職員が戻ってきた。同市田老地区の写真を見せられた。「建物の形がない。空爆を受けたみたいだ」
夜が明けるのを待ち、迂回(うかい)しながら5キロ離れた三陸国道事務所にたどり着いた。事務所長に「道路啓開(けいかい)をやれないか」と言われた。初めて聞く言葉だった。
災害マニュアルにないその言葉は、がれきに埋もれた道路を重機で切り開き、救援ルートを確保することを意味する。発生直後のテレビ会議で大畠章宏国交相から「考えられることをすべてやってくれ」と全権委任された徳山日出男・東北地方整備局長が、各国道事務所に指示していた。
東北地方を南北に走る国道4号を縦軸として、そこから沿岸の主要都市につながる15本の横軸を通行可能にする。徳山局長は「くしの歯作戦」と名付けた。人命救助のタイムリミットは72時間だ。
鈴木所長はためらった。「大きな余震のたびに大津波警報が発令されているというのに、作業を引き受けてくれる業者があるのか」。宮古市内は市役所のある中心部から県立宮古病院までの6キロのうち、800メートルががれきで埋まっている。「このままでは助かる命も助からない」と焦った。
災害に備えて付き合ってきた地元の建設業者に協力を求めた。ちゅうちょする業者もあったが「誰かがやらなければ。警報が出たら一緒にすぐ逃げよう」と説得した。
路上にはまだ形をとどめている家もある。中に入って手がかりを見つけては家主と連絡を取り、了承を得てから壊す。遺体が出てくるたびに作業を止めた。
市役所と病院を結ぶ道は12日夜までに開いた。「次は被害の大きい田老だ」。協力を申し出る業者は続々と増えていった。
くしの歯作戦には52のチームを投入、予定した15本の道は15日までの4日間で開かれた。被災地に真っ先に入った職員たちに、徳山局長はもうひとつの任務を託していた。「首長の片腕になれ」
それは「リエゾン(連絡役)」と呼ばれた。多くの職員を失い通信手段も奪われた沿岸市町村幹部に衛星電話を渡し、どんな物資が必要かを聞き取る。
要望は多岐にわたった。燃料、チェーンソー、仮設トイレ、パソコン……。南三陸町から要請されたのは遺体の土葬に必要な収納袋。町役場が流された同町や大槌町には「庁舎が欲しい」と頼まれ、プレハブ小屋も建てた。
リエゾン班を束ねた池口正晃企画調整官は切実な要望を聞くたびに「できません」とは言えなかった。「自分たちは懸命に仕事をしている。でも大きな災害の中で、どれだけ役に立てているのか」。自問しながら走り続けた。
◆救援物資
◇どの倉庫を空けるか、決めておかなければ 集積所、満杯パニック
津波で壊滅した幹線道路を開く作業が続くなか、霞が関では救援物資を届ける動きが始まっていた。
首相官邸の会議室。臨時電話がひっきりなしに鳴り響く。11日、緊急災害対策本部に救援物資調達の拠点が設置され、各省庁から約30人が集められた。水や食料は農林水産、日用品と燃料は経済産業、医薬品は厚生労働省が各業界から集める。それを国土交通省の依頼を受けた運送業者や自衛隊が輸送する。災害救助法で物資調達は自治体が自助努力で行うと定めているが、今回は国が担った。
避難所になった宮城県石巻市の市立湊小は1階が水没し、上の階で被災者が物資を待っていた。乳児のいる母親は粉ミルクを溶かす水がない。教員が濁った水に潜り、1階に備蓄していたペットボトルを探してきた。避難者数は1000人を超え、15日におにぎりがようやく届く。責任者を務めた市議の庄司滋明さんは「2人で一つを分けてください」と呼びかけながら思った。「国はきっと分かっている。もう少しの辛抱だ」
「被災者に物資が届いていない」。14日、災害対策本部を通すのにもどかしさを感じた鹿野道彦農相は北沢俊美防衛相に「自衛隊でもっと多くの食料を運んでほしい」と頼み込む。国交省が業者に手配したトラックは道路の寸断や渋滞で時間がかかってしまう。輸送量も限られる。水や毛布を備蓄している自治体や企業も輸送手段に困っていた。
同日夕、北沢防衛相は「自衛隊が中心となって全国から救援物資を送り込む」と4人の幕僚長を集め、物流の仕組み作りを指示した。「膨大な物資を集めて末端まで届けるなんて経験がない」。幹部たちは悩んだ。統合幕僚監部の後方補給官、加治屋裕一1等陸佐は思いつく。「知事会と連携し、陸自の物流ネットワークを活用するしかない」
自治体や企業は物資の種類や量を都道府県に連絡し、自衛隊が指定した駐屯地や基地へ運び込む。空自松島基地(宮城県)などへ空輸し、陸自のトラックで各地の集積場へ届けることにした。16日夜には第1便が福岡県の空自基地から花巻空港へ飛んだ。
現地では、届いた物資が県や市町村の集積所で滞っていた。宮城県は集積所に予定していた場所が津波で流されたり遺体安置所に使われ、合同庁舎の狭い駐車場などに物資を運び込んだが、数日であふれた。
国交省で物流を担当した尾関良夫参事官は現地の情報を集めるうちに「これはパニック状態だ」と気づく。時間とともに被災地のニーズは変わっていくが、もう十分な水や毛布が大量に届き続けて集積所が満杯になる。今必要なものとの区別がつかず、運び出すのが遅れていた。
国交省は3月下旬から、物流のプロである日通やヤマト運輸の社員を現地に派遣する。頻繁に届ける物は出しやすいよう倉庫の入り口側に置き、在庫をデータベース化した。必要のなくなった宮城県の水や毛布は空いていた岩手県の倉庫を借りて移動し、宮城県のスペースを確保した。避難所の物資不足は少しずつ改善されていく。
尾関参事官は痛感した。「災害時にどこの倉庫を空けてもらうか、前もって決めておかなければ。東海、東南海、南海地震でも必要になる」
一方、仙台市にある厚労省東北厚生局は、病院や避難所への医薬品調達に追われた。
「災害時に厚生局が担う役割は、特に決められていなかった」と石井博史局長は言う。震災後3日間は停電が続き、本省とつながる電話はわずか1本。衛星電話もない。
阪神大震災を教訓に、厚労省は医薬品等供給マニュアルを策定し、都道府県で供給体制を築くよう求めてきた。宮城県では名取市役所近くの集積所に十分な量が保管されていた。庁内には医薬品卸会社の従業員が常駐し、病院からSOSが入ると集積所に連絡し、車で届ける仕組みだった。
しかし医薬品の仕分けは専門家でなければできない。薬剤師や医師を確保するのに時間がかかった。さらに、ガソリンが足りず隅々まで届けることが難しくなっていた。
「油がない。官邸に伝えてくれ」。石井局長は同期の社会・援護局長に電話で訴えた。
医薬品を運搬する車両は緊急車両として優先的に給油を受けられるとの通知が出ていたが、混乱する被災地ではガソリンスタンドに浸透していなかった。
大塚耕平副厚労相は19日、経産省や内閣府と調整し、厚労省のロゴに丸囲みで「薬 緊急医薬品輸送中」と書かれたマークを示せば満タン給油できる仕組みができた。卸関係者にマークが届けられたのは翌20日のことだった。
ガソリン不足は物資輸送に後々まで響いた。
◆燃料
◇目標到達に1カ月
「2、3日後にはしっかり動き出す形にしなければいけない」。3月17日の記者会見で被災地へタンクローリー300台を追加投入すると表明した海江田万里経済産業相は、燃料不足解消のめどを問われ答えた。しかしシナリオ通りにはいかなかった。
陸路でのピストン輸送には限界があり、太平洋側の油槽所にタンカーで大量に運び込む必要に迫られていた。最も被害の少ない油槽所が宮城県・塩釜港にあった。
宮城県庁の現地対策本部にいた市村浩一郎・国土交通政務官は村井嘉浩宮城県知事から「塩釜港にタンカーを入れてほしい」との電話を受け、国交省港湾局に「海上保安庁と協力して開けてくれ」と伝えた。国交省は物資輸送の拠点として仙台港などの復旧を急いでおり、塩釜港は復旧作業の優先順位が低いことが分かった。
港湾局は海洋土木建設会社の特殊な船をかき集め、塩釜港でも海底のがれきや浮遊物をできる限り撤去した。だが、座礁の可能性は残る。「沈没でもしたら、油が大量に流出してしまう」。国交省幹部らが見守るなか、海上保安庁の船に先導され名古屋港からタンカーが接岸した。21日午前だった。
それでも供給は滞る。経産省の内部資料によると、16日時点で宮城県で一般の被災者が利用できたスタンドはわずか4カ所。被災していない店もガソリンがないため開店できなかった。県石油商業組合は緊急車両に残りわずかな燃料を回すので精いっぱいだった。
タンクローリー不足は続き、250台から増えない。29日、資源エネルギー庁資源・燃料部の加藤庸之(つねゆき)政策課長は「これ以上出すのは厳しい」という石油連盟に「それでも出してください」と求めた。4月13日、300台を超えた。同庁は近隣にスタンドのない地域にドラム缶と手動ポンプを持ち込んだ「仮設スタンド」も設置した。
燃料不足が解消し物資も届くようになると、被災者が避難所をいつ出られるかが課題となっていく。
◆仮設住宅
◇建設戸数にこだわるべきではなかった 地元任せ、増えぬ候補地
◇「みなし仮設」被災者の訴えで拡大
「分かっていると思うが、ちょっとやそっとじゃ済まない」。3月11日の地震発生からわずか15分後、国土交通省の橋本公博・住宅生産課長は受話器を握っていた。相手はプレハブ建築協会。
協会は都道府県と災害時の協定を結び、市町村ごとの必要戸数を集約した県の発注を受けて加盟各社に割り振る。橋本課長は業界の生産能力を考慮し、2週間で600戸、4週間で4300戸分の資材を出荷するよう協会に伝えた。
災害救助法で、仮設住宅の建設は自治体の業務とされている。市町村が用地を探し、県が了承して建設が始まる。国はサポートする役割だ。同法を所管するのは厚生労働省だが、「資材発注や納期など業界とのシビアなやりとりは、国交省の持つパイプなしには不可能。餅は餅屋だ」と厚労省幹部は言う。特に今回は当初から、大畠章宏国交相が積極的に旗を振った。
橋本課長は95年の阪神大震災で仮設住宅を担当し、04年の新潟県中越地震でも現地に入り用地確保の指示にあたった。霞が関では「仮設のプロ」とも呼ばれる。過去の経験で痛感したのは「霞が関と現場のギャップ」だ。東京にいて頭で考えるように現場は動けない。それを思い出し、翌12日以降に職員4人を被災3県に派遣して建設のノウハウを伝えた。
長く大災害がなく、プレハブ業界の在庫資材は乏しかった。大畠国交相は一般住宅メーカーにも協力を得ようと14日、住宅生産団体連合会の樋口武男会長(大和ハウス工業会長)に「2カ月で少なくとも3万戸程度供給できるように」と要請した。
19日。在庫をかき集め、岩手県陸前高田市の中学校グラウンドで第1号着工に踏み切る。橋本課長には「避難所の人は仮設を見ると希望が持てる」との思いがあった。
だが、そこからが進まない。住宅業界全体は長引く景気低迷で受注実績が阪神大震災時の半分程度になり、供給能力は大幅にダウン。しかも一般住宅メーカーが生産ラインを切り替え資材生産に乗り出すまでには4週間が必要だった。
国交省4階の大臣室に大畠国交相が張り出した仮設住宅建設戸数の棒グラフは、4月1日から2週間「36」で止まった。見るたびに橋本課長は胃が痛んだ。各市町村からの建設要請は増え続け、4月14日には7万2000戸まで膨れ上がる。省内には「仮設は厚労省に任せておけばよかった」とのぼやきも聞かれたが、「やらないで怒られるより、やって怒られたほうがましだ」と漏らす幹部もいた。
4月26日の衆院予算委員会。菅直人首相が「遅くともお盆のころまでには希望者全員に入っていただけるよう全力で努力したい」と表明する。省内には寝耳に水の発言。テレビ中継を見ていた橋本課長は思わず天井を仰いだ。
建設戸数がなぜ伸び悩んでいるのか。橋本課長は市町村ごとに精査するうちに、石巻市など宮城県の2市2町で用地確保の遅れが突出していることが分かった。
土地のある内陸で戸数を増やしたい県と、「海沿いから離れたくない」住民の意向を尊重する市町との間で調整がつかない。国交省は自治体任せの方針を転換する。
首相の「お盆発言」があった26日、国交省の意を受けて独立行政法人・都市再生機構(UR)から急きょ、用地選定の専門部隊が2市2町に送り込まれた。「水につかった所はだめだ」と一律に却下していても、候補地は増えない。専門部隊は浸水が軽い場所であれば建設を検討するよう県と調整し、基準を緩和していった。
◇
仮設住宅建設とは別の動きもあった。災害救助法を所管する厚労省は震災発生翌日の3月12日、法に基づき「(自治体が)民間賃貸住宅を借り上げて仮設住宅とすることもできる」と県に通知した。ところが被災地の行政はパンクしていて、借り上げは進まない。
被災者は避難所を出るめどが立たず、自分でアパートを探し始める。その動きに呼応し、自治体から国費負担を求める声が高まった。だが、自ら入居した部屋を後から仮設とみなすのは前例がない。省内では「自力で借りられる人まで救助法の対象とする必要があるのか」との慎重論も色濃かった。
そのころ、宮城県選出の愛知治郎参院議員(自民)の元に、南三陸町の被災者からファクスが届く。「急いでアパートを見つけましたが、津波ですべて失い収入がありません」。愛知議員は4月18日の参院予算委員会で取り上げ、事態は動く。4日後、厚労省は一転して「みなし仮設」と認める方針を固め、30日に都道府県に通知した。宮城県が厚労省に要望書を提出してから3週間が過ぎていた。
厚労省災害救助・救援対策室の吾郷俊樹室長は「自治体自体が被災し、借り上げまで手が回らないことが、いろいろ聞いているうちに分かってきた」と振り返る。
国に認められたことで民間賃貸への入居は進み、当初7万2000戸だった建設必要戸数は下方修正され、5月19日時点で約5万2000戸まで減った。
みなし仮設は入居期間が原則2年で月額6万円が目安。プレハブ仮設の建設費と比べ1戸当たりにかかる費用は格段に安い。しかし厚労省は今回の対応をあくまで「例外」としている。同省災害対策本部の金谷裕弘審議官は「被災地域が広く、仮設の用地探しが困難だった。次にこれほど大きくない災害があった時、同じように認めるとは限らない」という。
首相が期限とした8月15日。9割にあたる約4万7000戸が完成したものの、宮城と福島は全戸完成が9月以降にずれ込んだ。結局、みなし仮設の入居者は建設した仮設の戸数を上回った。
増産を続けた住宅業界は大量の在庫を抱えることになった。国交省は「大臣からの要請で準備したのに、どうしてくれるのか」と抗議を受け、わびるしかなかった。
国交省の橋本課長は教訓を胸に刻む。「被災者の気持ちを考えれば、建設戸数ばかりにこだわるべきではなかった。もっと前のめりになって、早くから自治体に協力しなければいけなかった」
◆がれき
◇「国が処理を」実らず
旧北上川のほとりに建つ宮城県石巻市南境の仮設住宅。10メートルほど先にがれきの1次仮置き場がある。7月にようやく入居した石森章一さん(67)は秋になった今も悪臭に悩まされる。夏場はハエが異常発生して窓を開けられなかった。2次置き場に移すめどは立っていない。「せめて期限が分かれば、我慢のしようもあるのに」
がれき処理はなぜ遅れたのか。
3月20日、環境省から被災地に派遣された清水康弘審議官は、現実を目の当たりにする。
法律上、がれきは家庭ごみと同じ一般廃棄物で、処理は市町村が行うが、震災当初、市町村はほとんど機能していない。それでも依頼を受けた地元建設業者が少しずつトラックで仮置き場に運んでいた。分別はされていない。清水審議官は後のことを思うと心配が募った。「最初からきちんと最後の処理を考えないと、余計に時間がかかる」。首長に分別処理を勧めたが、「こんな時にやっていられるか」と反発も強かった。
5日後、清水審議官は、がれきが最も多い石巻市を訪れる。市幹部から「とにかく早く片付けてください」とすがるような声で頼まれた。いったん東京に戻った時、本省で「『とりあえず検討する』という霞が関時間で対応してはいけない」と訴えた。
一方、国土交通省には首長から「国交省がすべて業者に発注して処理してほしい」と陳情が相次ぐ。建設・運送業界とのパイプがあるからだ。
だが、応えられない。「われわれにはリサイクルや分別のノウハウがない」。重機や作業員の足りない市町村からの相談窓口を設置したり、埋め立て候補地の情報を提供するにとどまった。環境省内には「国交省は人を出して手伝ってはくれない」との不満も出た。
こうした中、仙谷由人官房副長官が5月8日、「国が(費用を全額負担する)直轄事業でやらないと進まない」とテレビで発言する。環境省には初耳。職員が約1400人と少ない同省は、被災したすべての自治体に職員を出すことはできない。地域の実情も分からない。「仙谷さんは現実を知らない」。憤りさえ漏らす幹部もいた。
宮城県の村井嘉浩知事は当初から「国直轄」を強く要望していた。1次仮置き場への搬入は進んでいたが、今後は2次仮置き場に運び、分別してリサイクルや焼却処分するには広域での処理が必要になる。とても市町村単独ではできず、県が代行するにも人手が足りない。さらに、補助事業である限り、補助金の申請・執行に関する手続きが煩雑で、処理が遅れてしまう。仙谷副長官の発言を聞き「国が何とかしてくれるかもしれない」と村井知事は期待した。
しかし霞が関の議論は進まない。地方自治を所管する総務省の幹部は「財務省が嫌がった。過去の災害との比較もあり、(国が全額負担する)あしき先例を作りたくないということ。うちもそれを聞くしかなかった」と明かす。
5月27日、村井知事は県庁で樋高剛・環境政務官と向き合った。「村井さん、これ以上待っても状況は変わりません」。直轄事業をあきらめ、県に代行してほしいという国の意向を知事は受け入れた。1次置き場が満杯になると、がれきの撤去が滞り、町の復興が遅れる。2次置き場に移す作業を一刻も早く進めなければならなかったからだ。
結局、国の負担は95%まで引き上げられたものの「国直轄」は実現しなかった。8月12日に成立した特別措置法には、野党側の主張も反映され、市町村の委託を受けて国が代行することもできるとの規定が盛り込まれた。しかし県は既に代行を始めていた。「もう、時計の針を戻せない」。村井知事は今さら仕組みを変えても混乱するだけだと判断した。
がれき処理に苦闘する石巻市。職員は補助金の申請に必要な処理計画書の作成に追われ続ける。環境省から3回書き直しを求められたこともある。「環境省もわれわれも休まずがんばっている。なのに進まない。何かがおかしい」
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◇枠組み越え支援を
中央官庁の被災者支援は個々の課題で成否を分けた。自治体や企業、他省庁との従来の役割分担にこだわるのか、枠組みを越えて柔軟に対応するのか。当初、現地の行政がまひ状態だったことを考えれば、霞が関は官邸と連携し前面に出て支援にあたるべきだった。
毎日新聞 2011年10月2日
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テーマ : 東北地方太平洋沖地震
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